編集者とブレストして到達した「本当にうまい文章にたとえ話は不要」論

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「~の到達点」っていう言葉にすっごい惹かれる出版プロデューサーの西浦です。「人類の到達点」(某ニュートン一族)とかカッコいい!あと「橋頭保(きょうとうほ)」「分水嶺(ぶんすいれい)」って言葉も使いた過ぎてよだれ出る。

 

さて、先日30代の脂の乗ったベストセラー編集者たちとアルコールセッション(飲み会)をしていたときに「良い文章とは何か?」という話になりました。

  • 構成力?
  • 書き出しの面白さ?
  • オリジナリティのある表現?

いずれも大事だし、他にもいろいろと考え方はあると思うのですが、全員が「なるほど!」「これは新しい考え方かもしれない!」と納得した「うまい文章」「良い文章」の条件を発見しました。

これが僕らの「文章術に関する現時点での到達点」です。(←到達点使いたいだけ)



目次

難しいことを簡単に説明できる人が頭いいって本当か?

「頭がいい人は、難しいことを簡単に説明できる」「難しいことを難しく話すのは、頭良くない人」みたいな話しを聞いたことはありませんか?

これって本当にそうでしょうか?なんとなくそんな気がするものの、ちょっと違和感を感じたことはありませんか?

僕がそのように感じるのは「難しいことを簡単に翻訳する時点で、大事なことが抜け落ちてしまっているのでは?」という疑問があったからです。

頭がいい人や専門家だからこそ到達できる境地というものがあって、それを僕のような一般人にわかるレベルに翻訳すると、何かズレてたり、肝心なところは分かってないんじゃないかな?と不安になることがあるんですね。(相対性理論とか量子力学の本とか読んでると特に・・・)

 

だから編集さんたちと話しながら

  • 「簡単に説明する=たとえ話でわかりやすくすること」のようなイメージがある
  • 原稿でも分かりにくいところがあると「たとえ話」を要求したりする
  • けれど「たとえ話」が必要な時点で分かりくい文章ってことなのでは?
  • むしろ「難しいことをそのまま話しても、大事なことが伝わる人が賢い人なのでは?」』

という疑問が生まれたんですね。

 

「簡単に説明する」とは、たとえ話をすることではない。

「難しいことを簡単に説明する」ということがどういうことか、ちょっとまとめてみました。

難しいことというのは

  • 複雑であったり
  • 専門用語が多かったり

する話だと思うのです。それを簡単に説明するとは

  • 複雑な構造を単純に ⇒ 単純化
  • 専門用語を一般的な言葉に ⇒ 一般化

するということになりますね。プロフェッショナルや専門家が、初心者や素人にわかるように話すってこういうことだと思うんです。

 

でも、この単純化された際に抜け落ちたニュアンス、一般化された際に失われた背景って伝わりません。

これこそが僕が危惧している「難しいことを簡単なことに翻訳すると、抜け落ちてしまう大事なもの」です。

 

「こっちが善であっちが悪」みたいな超・単純化をしてはむしろ頭悪い人だと思うのですよ。(簡単だし、わかりやすいけど)

だから本当に頭がいい人は「単純化しつつニュアンスを伝え、一般化しつつも背景は伝える」ことができる人ではないでしょうか。

 

この絶妙なバランスで単純化・一般化ができれば、読み手聞き手はその瞬間に「なるほど!」と、プロや専門家に近い(同じではないけど)レベルで理解できます。

これはとてもハイレベルなことで、問題なのは上手に単純化・一般化できない人が、「たとえ話」を多用し、伝わったつもりになっているケースです。

たとえ話は逃げ

「単純化しつつニュアンスを伝え、一般化しつつも背景は伝える」ことが出来た時、そこに「たとえ」は必要ありませんね。なぜならすでに伝わっているからです。

でも難しいことを、短めの言葉で「バシっ!」と言い切った後、周りは逆に「ぽかーん」としていて、そこから『要は~』とか『例えば~』と「たとえ話」を持ってくるケースがありますよね。

 

そういうまわりが理解できてないときは「たとえ」るのではなく、再度「単純化と一般化」にトライする方が良いと思います。周りが「( ゚д゚)ポカーン」としてるのは「単純化・一般化が足りていない」か、「やりすぎてボヤけたか」のどっちかなので、そこを再調整すれば伝わるはずです。(それが難しいのですけどね)

それができていないのに『要は~』なんて言うと『いや、あなたの話、全然要してないと思うんですけど?』って聞き手は不快に思います。

たとえ話の使いどころは自分事化

ではたとえ話はまったく使えないものなのでしょうか?もちろんそんなことはありません。たとえ話は読者に「自分事にしてもらう時」に役立ちます。

つまり自分の人生に置き換えるためのたとえ話は有効です。

こう思うようになったのは、僕が読者向けに本のプレゼンをするイベントがきっかけでした。

 

僕がオススメの本を紹介するというイベントを定期的にやってまして、そのイベントで「銃・病原菌・鉄 1万3000年にわたる人類史の謎 」という本を紹介したときのことです。

 

『なぜ人類はお金や権力などを「持つ者と持たざる者」の間で差が生じてしまったのか?それは人種や才能の差異ではなく、生まれ落ちた場所が農耕に向いた土地で、その地域で育てられる作物の種を持っていたという2つを満たしていたかどうかが明暗を分けたのです。優れていたとか努力したというよりは環境の影響力が非常に大きく、効率的に食糧をたくさん得られた方に、政治システムや武器を作製する余裕があったのです。』

 

という話をしたら、みんな「理解」「納得」はしてくれるものの「で?で?」と、「もっとくれ、もっとくれ感」がすごかったんです(笑)。

実は僕としてはもうこれで十分というか、しっかり伝わった、落ちがついたと思っていたんですね。けどみんなの「もっと来い、もっと来い感」がすごかった。そこで

 

『これはそれぞれの人生に置き換えた時に、とても気をつけなくてはいけないことだなぁと思いました。【たとえば】自分がどれだけ仕事で努力しても、その業界(環境)や才能(種)が「向いていない」ものであれば、持たざる者の側になってしまう可能性があるからです。

「なぜイチロー選手は、今の年俸を得られたか?」といえば「努力、才能、いずれも必要だが、一番大事なのは野球を選んだことだ」という話を聞きました。野球でなくて、もっとマイナーなスポーツであれば、今のような年俸は得られなかったでしょう。同じくらいの才能を持ち努力をしたとしてもです。タレントの武井壮さんもそんなことをおっしゃってましたね。

逆に今うまく行ってるなら「才能がある」「努力してきたから」だけでなくて「環境のおかげ」と感謝の気持ちを忘れてはいけません。たまたま育てるのに向いた種と、育つ環境に身を置けただけなのかもしれないのです。』

 

と若干焦りつつ、たとえ話のオンパレードを披露したところ、『おおー!』とようやく皆さんの満足を得られました(焦った・・・)

それ以降は「内容まとめ+自分の人生に関わるたとえ話」のセットで紹介することで、興味関心や、人によっては感動したと言ってくれた人も出てきました。

おそらく、「読む」や「聞く」という行為は、どうしても受け身にならざるを得ず『ここが着地点ですよ』というわかりやすいサインがないと、感情の着地どころを見つけにくいんですね。

そのときに「たとえ話」は読者や聞き手が「自分事」として落とし込むきっかけになるのです。

 

というわけで、難しいことを書いたり、言ったりするときに安易に「たとえ話」に逃げるのはやめましょう。

「たとえ話」は、理解の後で、相手に自分事として落とし込んでほしい時に使う、伝える技術の到達点です。(←到達点使いたいだけ)

参考リンク
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